今日は曇りってことかしら⁉️

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おはようございます❣️

昨日は午後、1時間ほど、冷房なしで過ごせましたが、、、、外の木がかなり揺れていて、風が強そうだったので、エアコン止めて、窓を開け放ってみました。

結構、いける、、、と思ったのですが、、生暖かい風で、1時間しか持ちませんでした。

今日は昨日より暑いらしいので、、、、。

雨が降るたび気温が下がるものと思っていましたが、まだまだの様です。

さて今日は8/15、お盆の日です。

そんな訳で、今日は1991年に亡くなった父と、2019年に亡くなった母について、書き込んでみたいと思います。

父と母は、長崎生まれです。そして母が三村家の長男の末っ子、父は次男の次男坊として生まれた、従兄弟同士の関係です。

年も一才しか違いません。

父の父が、2度目の奥さんを迎えた事で、父と、父の兄は、かなりの継子いじめをされた様で、兄は新潟の大学へ、、、、残された父は、色々な意味で他の兄弟と違う扱いをされたそうで、継母が作ってくれた弁当には一切手をつけず、捨てて帰ってきていたとか、聞いたことがあります。

まだ、中学生という難しい年頃に、実の母が追い出され、残された父は、相当、苦労した様です。

見かねた父親が、自分の兄の所で面倒みて欲しいと、頼み込んで、その当時、東京の南千住に住んでいた、母の父の所に、預けられたそうです。

母は、生まれて一才の頃に、家族で上京、、、、戦争で、疎開するまで、自分が、長崎生まれだとは知らなかったとか、、、、。

母の父は、宮大工の棟梁で、関東大震災後で、東京に大工が足りないとの事で、お弟子さん達を連れて、上京し、南千住にあたりに住んで居たらしいです。

母には、下に弟がいた様ですが病気で、亡くなり、本当の意味で母は末っ子として、甘やかされて育った様です。

そんな所へ長崎の親戚から、1人の男の子が上京して来て、吃驚したそうですが、元々が子供が多く、お弟子さんたちも多かった為、1人増えても、さして、問題にはならなかったそうです。笑笑。

なのでそんな頃から、父と母は、兄弟の様に、同居していた訳で、母に、嫁の貰い手が居なかったら、俺が貰ってやると、父は常日頃言っていたらしく、まあ、結果、結婚する事になるのですが、、、、。

その前に、戦争が酷くなり、父の兄も、母の兄も、遠く外国の地やその途中で亡くなった様で、届いたのは、戦地に行く前に残していった爪と、髪の毛だったらしいです。

父も大学在学中に徴兵制度に引っかかり、いわゆる学徒出陣という事になりました。

ただ、父が、幸運だったのは、配属された場所が九州の何処かだったらしく、海外へ行かされる事はなかった様です。

父は特攻隊を志願した様なのですが、学生時代に怪我をした目が視力が悪く、ダメだったらしいです。

お国のために、、、と、特攻隊を志願したっていう事⁉️と、私が聞いたら、父は、あの、白い長いストールがカッコ良かったからそれに憧れたのだとか、、、、笑笑。

流石、カッコっマンの父らしい、言葉でした(本心はどうか知りませんが)

そうしているうちに残された母と、祖母は、東京に残り、暮らしていましたが、例の、東京大空襲に遭ってしまいます。

母は祖母を連れて逃げようとして、逃げ遅れ、皆んなが避難した場所とは違う、吉原土手の方に逃げてしまいそこには誰も居なくて心細かったそうですが、、もし、みんなと一緒に隅田川の方に逃げていたら、母も祖母も今は居ないし、私も、こうして存在していない事だったでしょう。

そのあと、東京では暮らせないとなり、長崎へ疎開したのですが、、、、。

長崎には母の姉がお嫁に行っていたので、そこと長崎市内のうちを行ったり来たりしていた様です。

その時は、祖母は出身の五島列島の方にいたのかも知れません。

原爆が、長崎に落ちた時、母は、偶々、一山越えた、日見という姉の嫁ぎ先に滞在中でした。

閃光が、、、、と、思った瞬間とんでも無い爆風で、その家の窓という窓は吹っ飛んでしまった様です。

運良く、叔母も、母も怪我はなかった様ですが、母の姉は好奇心の強い人だったらしく、長崎に、凄い爆弾が堕ちたらしいと、物見うさんに出かけたらしいです。

その為、叔母は被爆者手帳をもらっていますが、母は貰ってません。

あれだけの爆風を浴びているのですから.長崎に行かなかったとしても被曝はしていると思いますが、、、、。

そうして、戦争が終わり、父が帰ってきて、叔母のうちで、結婚の儀式をしたとか、、、世話好きの叔母があちこち探し回って、鯛を手に入れてきてくれて、何とか、結婚という形になったと、母から聞きました。

叔母は、父が亡くなって、1、2年後に亡くなり、母は、96になる年まで、生きました。

父は長崎の県庁にずーっと勤めていて、例の、長崎干拓事業にも深く関わり、その功績が認められ、教育庁、副知事まで出世しましたが、長崎市長選を健康不安の為に、断念し、69歳で、亡くなりました。

母も、姉も物作りが大好きな人で、姉は何でも出来る人で、確か、梅宮辰夫がやっていた、料理万歳⁉️とかいう番組で、長崎料理を披露していたのを、思い出します。

母は、多分、そういう姉(7歳違い)に影響を受けて、私の服を手作りしたり、編み物をやっていたり、絵がうまかったので、ちょっとした、昔ながらの着せ替え人形を作って遊ばせてくれたり、、、、。

私が20歳で上京する時には、叔母がピンクッションを作ってくれて、ずーっとをそれを使っていたのを覚えています。叔母には子供がいなかったので、よく可愛がってもらっていました。

今の私があるのはこの母と叔母のおかげかも知れません。

小学校の時は、いつも母の手作りの服を着て学校へ行っていたのを思い出しますし、母がミシンを踏んでいる側で、ずーっと、物が出来上がるのを見ていた記憶があります。

そんな母に、父が離れて暮らしていた戦争中、頻繁に手紙をくれていた様で、まあ、いわゆるラブレターという物ですが、今でも、私の手元にあります。

いつか、これを、小さな本に出来たらいいななんて思っているのですが、、、形に出来そうかな、、、、。

ま、、あの激動の時代を生き抜き、父と母は、子供の頃からの縁で一緒になり、私という子供が生まれた訳で、今、同年代の人と比べて、何の治療すべき病気もなく健康に過ごして、いい仲間にも恵まれて、楽しい日々を過ごせているのは、この父は母、のお陰と、今日は感謝の1日にしたいと思います。

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